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Hanae Miuraさん(後編)

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~古流なぎなた直心影流(じきしんかげりゅう)師範〜

「私は4歳の時実父を亡くしていましてね。元は横浜の生まれで兄弟も7-8人いたようですが、私だけ水戸にあった家族に養女にやられたのです」

 

薙刀師範の三浦花枝先生の生い立ちは、決して恵まれたものとは言えませんでした。たった4歳の幼女が、親兄弟と離れて、友達も知り合いもいない水戸に一人で出されたのです。

「汽車に乗って連れていかれたんですよ。その時ポーって、すごく大きな汽車の汽笛の音がして、自分がびくって驚いたことまで覚えていますよ」

もらわれた先は子供ができない中年のご夫婦でした。初めて行った水戸では、強い方言のため何を言っているのか理解できませんでした。

「養母が自分のことを「オレ」って言うのにびっくりしてしまって」と花枝先生はその時の驚きもよく覚えています。

「毎日おうちに帰りたいと泣いていました」が、誰も4歳の花枝先生を迎えに来ることはありませんでした。

 

言葉もわからない、友達もいない、泣いても誰も助けてくれない、花枝先生が運命を潔く受け入れることができる女性となったのは、こうした生い立ちも関係しているのでしょうか。

剣術の盛んな水戸藩の町、ある日泣いてばかりいた先生をかわいそうに思ってか、ご近所の人が薙刀の道場に連れて行ってくれました。先生が大人用の薙刀を切って、子供のサイズにあつらえ、そのミニ薙刀を抱えて、道場に通う生活が始まりました。薙刀は、小さな独りぼっちの少女の心を支えてくれたのです。そして、いつしか小さくとも、我慢強い凛々しい薙刀剣士が誕生しました。

子供用に切ってもらった薙刀を持って。5~6歳の水戸時代

 

「13歳の頃だったと思います。横浜に実母がいるはずだと思い、記憶だけを頼りに、一人で汽車に乗って、母を探しに行ったのです」

養父母の元をこっそり出た花枝先生は、何時間も汽車に揺られ、道を尋ねて、横浜の町を歩き回りました。「女の子が一人で危ないよ」と親切なお巡りさんに助けてもらって、ついに実家を探しあてることができました。暖かく迎えてくれるはずの実母と姉は、「この敷居を一歩も跨いではいけない。あなたは養女となって他家の人となった子なのだから」と、玄関先から追い返したのです。

水戸の養父母は家出をしてしまった娘に腹をたて「今までの養育費を払え」とまで言ったと言います。どこにも行く当てのなくなってしまった花枝先生。しばらく受け入れてくれた実兄の助けもあり、今でいえば高校生にもなるかならないかの年齢から、立ち食いスタンドのおつまみを作ったり、新聞配達をしたり、たった一人で暮らしを立てて続けました。誰も助けてくれない大都市で、薙刀だけがいつも傍にありました。

神戸の宗家から、結婚して東京に来ていた島田晃子先生との出会いも、花枝先生の薙刀の飛躍的上達にはなくてはならないものでした。島田先生は薙刀界では天才と呼ばれた薙刀の女流武術家です。

 

天才女流武術家島田晃子先生。花枝先生は最期の愛弟子

 

花枝先生の薙刀は、先生にとっても同じ道場の仲間たちにとっても、武術という以上に生きていく姿勢を見せてくれる指針だったのです。

桜祭りを機に、ハワイで乞われて薙刀を教え始めた花枝先生は、ビザがないため、ハワイと日本を何度も行き来して、薙刀を教えるという生活を続けました。往復の旅費はもちろん、生活費も全て自分で働いて、そのお金を少しずつ貯めてというものでした。

それを知ったのが日系人のスパーク・松永下院議員(当時下院議員、後に上院議員になる)。

「私の手を引いてね、移民局まで一緒に行ってくださったのよ。『この女性にグリーンカードを出すまで僕はここを離れないよ』と言って」

この50年、生徒さんの稽古着は日本の薙刀や剣道のグループからの寄付がほとんどです。一時は70着も寄付を受けて、ハワイまでもって帰ったこともありました。胴着がほつれたら自分達で縫い直し、何度も洗って使いました。お弟子さん達が昇段の試験を受けに日本に行く費用は、日ごろから10ドル、20ドルと積立をして貯めました。練習用の薙刀は、自腹を切って帰るたびに何本も飛行機に積んでもらいました。

薙刀を普及させること一筋に、花枝先生の人生がありました。日本では女性の武芸である薙刀も、ハワイではその門戸を開いて男性のお弟子さんも沢山います。彼らの披露する優雅な薙刀をみて、日本の薙刀専門家たちはアッと驚いたと言います。花枝先生の厳しくもあり、また心から生徒たちの事を思う教え方にそったアメリカの薙刀が、日本のものと遜色ないことを認めたからです。

潔く生きてきた花枝先生は、潔く去っていく準備も万端です。クロゼットの中の衣服は、一着ずつ、どのお弟子さんに形見分けするかが、すでにマークしてあります。家具類もほとんど使ってくれそうな人にあげました。いつ何が起こっても大丈夫なように「延命措置はしないで」という用紙を、肌身離さず持って歩きます。

 

人が避けたがる死というトピックも、薙刀の矛先を見るようにぴっちりと焦点を合わせて「準備はね、いいんですよ」と、微笑む余裕は本当に素敵です。

「いろいろな人がいろいろな形で助けてくださったから、今の私があるんですね」

インタビューの間中、先生が何度も繰り返した言葉があります。

「私は薙刀に守られているんです」

「薙刀が私を守ってくれているんですねえ」

薙刀の精というものがあるとしたら、それはおそらく何百年も薙刀に精進してきた何千人何万人の女性達の心の精でしょう。その薙刀精たちに守られて、85歳の花枝先生は、キラキラと輝いていらっしゃいました。

 

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