椰子の実、一つ
The Life of a Coconut
南国ハワイというと、椰子の木陰のハンモックでカクテル片手にお昼寝、なんていう図をイメージする方が多いと思います。
ものの本によると、海でサメに遭遇して命を落とす人に比べ、浜辺にいて落ちて来た椰子の実に当たって亡くなる人の率の方が、何と格段に高いんだそうです。
成長すると30メートルにもなる椰子の木から、1キロ以上に成熟した硬い実が、スピードを付けて落ちて来たとしますね。そうすると、それは1トンもの石が、頭を直撃した事と同じ衝撃があるんだそうです。「痛っ!」なんてレベルじゃないですよね。椰子の実だって、凶器になり得てしまうっていうことです。ハワイも椰子の木が沢山あります。でも、風が強い日、実もたわわの椰子の木の下は、ちょっと避けた方がよさそうかも。
さて本日は、その椰子の実の話。
名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ*
と唄ったのは、明治の小説家、島崎藤村でした。この詩は小学校唱歌にもなったので、聞いた事がある方もいらっしゃるかと思います。
椰子の実は、浜辺に落ちてそこで芽を出すか、海流に乗って何千キロを漂流後、異国の地に根を生やすこともある、実はとっても強い木です。藤村は渥美半島に流れ着いたココヤシの実の話を、有名な民族学者柳田国男翁から聞いて、この詩を作ったと言われています。
故里の岸を離れ、波に漂って日本という異国の地にたどり着いた椰子の実が、自分の身に思われるという詩人の気持ちが伝わってきます。その椰子の実の元のふるさとは、ハワイの海岸だったのでしょうか。
藤村は椰子の実に心をよせ、
故里の岸を離れて、汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は、生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
と問います。
これを書いている部屋の窓の外で、椰子の木が風にそよそよと葉を揺らせています。「旧の木(のひ孫たち?)は元気だよ~!枝も葉も貿易風に揺れてるよ~」と言ってあげたくなります。
故郷を後に海を渡り、異郷の地に根を生やした椰子の実のように、ハワイは、幾多の故郷を後にした移民の永住の場所でした。故郷に決して戻る事のなかった人々は、たどり着いた浜辺で根を生やし、子孫を増やしていったのです。
我もまた渚を沈む、孤身の浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば、新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば、激(にぎ)り落つ異郷の涙
日本からの流離の民も、明治元年から契約労働移民として数百人がやってきました。主に砂糖キビ産業の労働者として、日系移民の数は一時期20万人を超えた事もあったそうです。美しいハワイの地も、炎天下での労働を、一日何十時間も強いられた人々にとっては、地獄に近かったと伝えられています。
今でこそ、リゾートホテルでくつろぐ、おしゃれでリッチな日本人観光客がほとんどですが、その時代の日系人労働者は、農奴に近い過酷な労働を強いられました。JAL機でピューンとやって来て、すぐとって返す事の出来た時代ではありません。一度ハワイにやって来た人々は、帰る事の叶わぬ故郷を心の中で思い、大海原の向こうにいる父母や兄弟を想い浮かべました。
波に漂えれば、自分たちは二度と見ることのない故郷に、いつかは流れ着く椰子の実が、羨やましかった事でしょう。海に沈む大きな太陽は、涙でかすんで見えた日が多かったと思われます。
思いやる八重の汐(しお)に
いずれの日にか
故国(くに)に帰らん
砂糖キビ畑の労働者たちは、故国に帰りたいと思いつつも夢を果たせず、何十年もが過ぎていきました。ほとんどの人達が祖国に錦をかざることなく、ハワイの地にそのまま定住したのです。椰子の実が、たどり着いたその浜辺の地を、新しい家として新葉を出したように、次の世代を新地で増やしていきます。その椰子の実も、いつしか高い高い椰子の木に成長し、その日陰で海辺の憩いの時を楽しむ子孫たちに影をもたらします。
ハワイの島々には、こうした日系人労働者たちのお墓があちこちに散在しています。異国の地で根を生やし、子を孫を作った人々。故郷を想い、しかし、一度も故国を訪れることのなかった彼らのお墓は、椰子の木群に囲まれて静かにたたずんでいます。そのお墓は、皆、海のかなたの日本のある方向を望んでいるという事です。
*「椰子の実」:島崎藤村「落梅集」より明治34年出版より
* Featured Photo by Daniel Barker Photography
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