パールハーバー(Pearl Harbor)
何年か前に真珠湾に浮かぶアリゾナメモリアルを訪ねた時、一人のアメリカ人の老兵士に会ったことがありました。その人はもう70代に手が届こうとしている銀髪の品のよいご老人でした。メモリアルに行くためには、フェリーボートに数分乗らなければいけないので、乗船する人に混じって順番を待っていた所、その人が話しかけてきたのです。
「日本人だね」
「はい」
「日本から旅行で来たのかな」
「アメリカ本土に暮らしているので、日本に一時帰国途上にハワイに寄りました」
そんな会話から始まって、そのご老人は、自分がハワイの海軍基地に数か月いた後、太平洋戦線で従軍し、終戦後は進駐軍となって、短期間東京に駐留した事などを懐かしそうに話してくれました。
「進駐軍」はGHQと呼ばれていた連合軍最高総司令部の事です。焼け野原だった東京に降り立ち勝ち組の米軍将校は、その頃まだ20代だったこのご老人でさえも、風を切って東京を歩いたと言います。
アリゾナメモリアルに行くフェリーボート
フェリーに乗る番が来て、そのご老人とは離れ離れになったのですが、アリゾナ艦から戻るフェリーでまた一緒になりました。連れの方もいないようで、のんびりと真珠湾の青い海を見ているその人に、私は何となく話を聞いてみたい気持ちになりました。
「また、お逢いしましたね」
「日本はどこが出身地かな?」
山手線に乗って、東京タワー近くの学校に通った話などをすると、その老人はこんな思い出話をしてくれました。
「その頃、まだ23歳だった私は、日本でスミコという女性に会ったんですよ。日本軍のパイロットだったスミコのご主人は、フィリピン海戦で戦死したと言っていました。私より数年上の美しい女性でした。」
バージニアの田舎町から従軍した若き米兵は、日本語はできませんでしたが、片言の英語を話すスミコさんという女性に強く惹かれました。スミコさんは、生活の為に連合軍のビルの清掃をしていたのだそうです。戦争後の動乱の中で、かつては敵国の若者同士は、いつしか恋に落ちました。そして、たった4ヶ月の間でしたが、「エビス」というタウンで、おままごとのような同棲生活をしたのだそうです。一年弱の日本駐留が終わった若者は、本国に帰国することになり、弁護士の勉強を始める為大学に戻りました。戦後の日本が、新しい民主憲法を作るプロセスを目の当たりに見た経験が、その動機になったと言います。
スミコさんとはその後、数回の手紙のやり取りはありました。しかしそれも、いつしか間遠になってしまいました。勉強が忙しくて、遠い日本の年上の女性の事は、いつしか心の中から忘れ去られてしまったのです。弁護士になった後は、一昨年亡くなった奥様と結婚し、二人の子供を育て上げ、孫も5人に増えました。
あれから50年近くの時が流れました。日本を訪れるチャンスにも恵まれず、勿論スミコさんとその後二度と会うこともありませんでした。
「ビューティフルレディだった」
アジア人が多いハワイにきて日系の女性を見ると、スミコさんの想い出が戻ってくるというのです。優しい目をした、小作りの老女をみると、こんなおばあさんになっているかもしれないと、特に思いが寄せられます。夏の宵、一枚だけ焼け残った浴衣を、特別に着て見せてくれたスミコさんの様子が目に浮かびます。「サマーキモノ」はあっても、「オビベルト」は燃えてしまったので、自分で風呂敷を割いて、縫い合わせた簡易オビだったそうです。
若者はアメリカ軍で入手できる食料を少しずつ差し入れました。スミコさんは「M&Mのチョコレート」を「おいしいおいしい」と言って喜んだそうです。スミコさんは、再婚して子供はできただろうか。あれから幸せな人生をおくれただろうか。今も健やかに生きていてくれるだろうか。孫はいるのだろうか。
「何も分からない僕に、人を愛することを教えてくれた女性です」
ご老人は遠くを見つめながら言いました。言葉はあまり通じなくても、二人は人間の心の触れ合いを持つことができたのです。スミコさんは、逸る若者に深い男女の機微を伝えた女性だったのでしょう。
目の覚めるような美しいコバルトブルーの真珠湾の海は、記念館の周りにひたひたと優しい波を寄せてきます。日米の多くの若者の命を奪ってしまった真珠湾、そして、戦争が終わった後も、多くの別離や悲しみを作ってしまった戦争が、半世紀たった今も、この老人の心の中に生きているのだなあと思った出会いでした。
Photo by Daniel Barker Photography
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